昭和45年11月21日   朝の御理解

御理解第70節
 人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。


 御道の信心ぐらい道理に合う、道理に合った信心はないと私は思います。どういうたとえば難しい質問を受けましても教祖が教えておられる一つ一つの御教えと言うものは、どこまでもなるほど天地の道理と言うかね、道理に合った信心だなと言うことを感じます。ね、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をしなければならんのだ。確かに人間がさせて頂く信心と。ま、人間以外のものが信心をするようなことはありませんけれどもですね。どういうところからこの道理に合わない信心を平気でしておるかと。万物の霊長であるという自覚がないからだと思いますね。人間は万物の霊長であるという自覚。
ね、神様とたとえば人間、ね、その第一続柄と言うものをはっきりしてないからだと思うですね。ね、だから、あの、ま、妙なところが出てくるのじゃないでしょうかね。
教祖様はそこんところを人間の、人間と神様との関係と言うか、それを親子と言うような表現、ね、親のことは子が頼み、子のことは親が頼み頼み合いいたせと仰るような見方を、頂き方をなさっておられます。
ですからもう実にそのへんのところが自然になってくるわけなんですよね。自然に願い願われると言うことになってくる。神様と人間と言うのがそういう関係においてなされるところの信心。
これはほかの宗教のことはよく分かりませんけれども、キリスト教であっても仏教であってもそのようなとき方をしておりません。ね、やはり神は神、仏は仏、ぶつはぶつと言うふうに。ですからそこになんて言うですかね、なんと言う厳しいひとつの戒律と言ったようなものがでけてくる。ね、たとえて言うと仏教のものが、仏教者は生き物を殺したり、また食べると言ったようなことやらはいけないとされておったり、キリスト教ではお酒を頂くことはいけないと言うようにその食べ物でもその、教祖の神様はそれをどういうふうに言っておられるかと言うと、万物の霊長である人間のために食物は作ってあるるのだとしてある。食されるもの、人間が食されるもの、またこれからでももっともっと食べ物の範囲が広うなるかもしれませんよね。今まで食べられなかったものが食べられると言うものは全部人間の命のためにと言うのだから。
ね、命のために与えてくださってある。天地の親神様がいわゆる人間氏子のために作り与えてくださるものである。けどもそれを食べて毒するようなことになってはならん。
そのために健康を害するようなことがあってはならんぞというて次の御教えくださってあるのが、ね、命のために作り与えたものであるから、ね、いわば大酒大食はいけないぞと言うふうに教えておられます。せっかくのその人間氏子のために作ってくださってものをあんまり食べ過ぎておなかをこわす、健康を害するようなことがあってはならんぞと。もうこの経典のどの一節を頂きましてもです、道理に合わんなと言うものはない。
みんな徹底して道理に合った御教えばかりですね。
ね、ですから神様の願いと言うか、人間の願いと言うもの、それは親子の情をもってたとえば説かれるところにです、実に適切である。
親のことは子が願い、子のことは親が願い、願い合い、頼み合いでいけとこういう。
ね、ですからそういうあり方を御道の信心ではあいよかけよとこう言うふうい言ってる。あいよかけよと。しかもそのあいよかけよで立ち行くと言う立ち行き方と言うものは、それこそスムーズなと言うか、ね、天地の道理に合うた生き方、だから天地間のこと、全てのことがです、ね、よりて整うと言うおかげになってくる。天地間の全てのことがです、そこの道理をわきまえてお互いが信心をしてまいりますとです、ね、それは親である子であるから、ね、整うんだと。
ね、そこでならそのすべてのことが整うていくと、というからというてただ整うと言うのではない。天地の道理に照らし合わせた生き方をさしてもらうから整うて行くのである。ね、人間は、ま、一生のうちに幸せになるチャンスと言ったようなものはそうざらにはない。そのチャンスをつかんだ人こそが成功するんだというようなことが言われます。
ね、ですからそういう例えば私どもがチャンスを恵まれてそのチャンスを境により繁盛していくということ。
これは私の生き方が間違ってなかったなと思うことは、私は若い時からいわゆる自分の座右の銘にしておったものは、あの節を大切にする人は伸びると。それを書いてもう北京におる時代、もうこちらに帰って来てもそれを自分の見やすい所に書いて張っておった。節を大切にする人は伸びる。ね、しかもその大事にすると言うのが段々信心が分からして頂くことになってくると、その節そのものを実意丁寧をもって見、聞き、行うと言うことになってくる。
もうこれなんか実に道理に合った生き方だったなと自分で思います。
ね、節から折れる人がある。ね、ところがその節そのものを大事にするのですから伸びるはずである。しかもその節から芽が出る。その節から枝が出る。ね、人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心をせよ。ところが世の多くの人が沢山な様々な信心宗教をし、なんでん何様でんよか、拝みさえすりゃよかと言うのもありゃ、やっぱり人間は宗教をもっておるということがいいと言うふうに思うて、ただその程度にしか思うていなかった。道理、人間は万物の霊長であるから万物を見て、万物を見て道理にあう信心、合わない信心をしておる。ね、いわばその大宗教であるキリストがそう、キリスト教がそうであり、仏教がそうである。ね、言うておることは同じようなことであるけれども、どんなに考えたって道理に合わない。
ね、そういう意味で私どもは金光様の御信心頂いておると言うことがです、ね、ほんとに有難いなと思うて、改めて分からしてもらう。
で、それがなら分かったとか有難いと言うておるだけではできませんから、本気で道理に合う信心をひとつ神習わせて頂かなきゃいけません。
ね、道理に、道理の上に立った信心。道理の上に立脚しての宗教。しかも人間は万物の霊長としての自覚、しかもその拝まして頂く対象は親としての頂き方、そこから神様はいわば子としての働きかけをなして下さる。いわゆる天地日月の心になること寛容なりと仰るような御教えがです、ね、いかに素晴らしいことかと言うことが分かって参ります。
だから私どもがいわゆる天地日月の心と言うような素晴らしい、実意と言うかね、丁寧と言うか、天地日月の心を心としてのたとえば生き方と言うことにいかにならなきゃならないかと言うことが分かります。
そこでならここにお道の信心者が改めて自分の信心を見直していかなければならない、自分の生き方がはたして天地日月の心を心としての生き方がでけておるかと。そして出来ていないとするならそこを改めていかにゃいけん。ただ金光大神のお取次ぎを頂いてお願いすることだけだというようなことになってくるとです、道理に合うた信心、道理に合わない信心と同じことになる。五十歩百歩になる。
どこまでも道理の上に立脚した信心。
成り行きを尊ばせてもらう、大事にするといったようなことがいかに道理に合うた生き方かと言うことをひとつお互いが実感していかなければいけない。そういう例えば生き方の中からでも、ね、例えばその節と言ったような場合、その節そのものをいよいよ見やすいところは大事にするけども、難しいところはそこ大事にしないと言うような生き方では、そこから芽が出たり、そこから伸びると言うことになってこないわけです。
どうも私どもは自分よがりと言うか、なら私が金光様のご信心だけが素晴らしい信心、だからそれが自分よがりの信心じゃないかと言うふうに言われるむきがあるかも知れませんけれども、そう、いわゆる道理に合うた、いわば表現をしておるわけですね、私。
ね、そういう意味で徹底、金光教の信心でなからなければならないと言う所以があるわけです。素晴らしいことを教えてあっても素晴らしい言葉を羅列してある御教えがあったに致しましてもです、他宗、他派のいわば信心はどう考えても人間万物の霊長としての人間がする信心じゃないようにある。ただの学問にしか過ぎなかったり、ただ低級な御利益追求の信心であったり、ということになるですね。
昔、私はあの、まだあの大東亜戦争の始まる前ですね。日米の雲行きが悪くなったため、時分に浪花節かなんかさしてもらった、浪花節の文句にその、ね、米国の米と言う字は米と言う字だと。日本の日の字は朝日の日の字だとこういう。ね、だから米は朝日に照らされて、やがて日本のままになるちいったような。たとえばなるほどその合点がいくですけども道理に合わないですよね、そういう言い方は。
だから私はいうその自分よがりと言うのはただ自分を中心としてその言う考えた考え方ではなくてです、ね、どこまでも例えばいうならば世界、米国の人であろうが、日本人であろうがです、ね、神様の氏子としての見方なんです。ね、何かその白色とか、黄色とか、ね、黒色とかと、ね、人種にもいろいろあります。白色が素晴らしくて、黒色がつまらないと言ったような見方をする。または選民と、ね、キリスト教あたりでは申しますように、ね、こう言う人種じゃなから、だけがそのほんとの神様のま、いうなら氏子であってほかの者は神の氏子じゃないような見方をする。
そこから争いが起こってくる。そこから戦争と言うようなことになってくる。いわゆる宗教戦争である。宗教者自体がそういうようなそのことになって、世界真の平和どころかただ自分の部族部類だけを大事にすると言ったような見方。もうこれでけでもたとえばね、ぶ道理に合うた信心じゃないかと言うことが分かる。
ね、日本人だって、ね、アメリカ人だっておんなじ神様の氏子としての見方。
ね、そこからいわば救済していこう、救い助けていこうと言う働き。しかもその助かり方はどこまでもあいよかけよと言う働き合いが、真の助かりと言うことになってくると言う信心。もうどういう小さい観点からみてもどういう大きな観点からみてもです、金光教の信心が素晴らしいと言うことを皆さんほんとに自覚させて頂きたい。だから、自覚と同時にです、ね、霊長であると言う自覚と同時に、ね、なら霊長であるところの自覚から霊長としての値打ちをいよいよ作っていくことのために信心は、ね、日々の改まりが大事であり、本心の玉を磨くのが信心だと言うことになってくる。
そしていわば天地の道理に合うた生き方、そこで天地間のこと、よりて整うてくるというようなおかげになってくる。
ね、そのおかげのスムーズさ、そのおかげのなんて言うかね、ほんとにわが身は神徳の中に生かされてあるんだなと、ね。神恩報謝の心がおのずと湧いてくるほどしのおかげになってくる。それはもう驚くばかりです。
昨日、佐田さんの弟さんの禎造さん夫婦がアメリカに留学しておられたときにお世話になったという、やっぱりお医者さんが日本に見物に見えて、そいでここへ参拝して見えまして、昨日ここで二、三時間ゆっくりしてま、帰られましたが、ほんとに日本人だから、米国人だからというて、たてへだてのない神様のいわば御恩恵と言うかね、に、私が受けておるご恩恵をそのままその米国人であるそのお医者さんの上に表して頂いたことでございましたけれども、もうほんとに見えられてから帰られるまでの間のこの出来事というか、もうほんとにただただ驚いてしまう。
昨夜、菊栄会でしたから、その菊栄会でその私がおかげを受けた昨日一日のことを聞いてもろうて、このようなおかげが受けられるのが金光様の御信心なんだから、ね、お互い仕事のうえにも商売のうえにもこれとおんなじおかげを受けられるんだというてお話をしたことでですけれども、私のが生き方が完璧とは言いません。ね、けども確かに万物の霊長としての自覚に立ち、しかもその万物の霊長としての値打ちをいよいよ作ることが、信心だと思わして頂いて、ね、で、その間にやはり雨もありゃ嵐もあるというかね、節もありますけれども、その節をいよいよ大切にして、むしろその節から芽が出たり枝が出たりしていく事実を現わしていっておる。こう言う生き方にならなければいけんと言うてお話したことです。ね、ただお願いをしておかげを受けたということであったらです、どんなに金光教の信心が素晴らしい、土の上に立脚した信心だと言うても、ね、道理にもとるところから生まれてくるおかげでは長続きせん。
それがいわゆる、ね、途中切れ切れなおかげになってしまう、と続いておるおかげになって来ない。改めて一つ金光様の御信心がいかに有難い、ね、信心であるか、いやほんと言うたらね、もう全世界が金光教の信心に、だけ一本に絞られるような本当は時代が来なければ人間の本当の幸福はない。ね、どんなに大宗教だ、どれでけたくさんの信者を擁しておると言うてもです、ね、同じたとえて言うならば、なるほどお徳と言うことにおいては、金光教でなからなければ頂けないということはないでしょう。けどもどこまでも道理に合うた信心、いわゆる道理にどんなに考えても合わないと言う信心、ね。
私はま、お徳ということが乗り物なんかであの表現して下さいますね。徳の船に、この世は徳の船に乗って渡れと仰るが、その徳の船ということは素晴らしいことですよね。ですからならほかの信心を頂いても徳を受けられるし、また徳者もたくさん現れておられますよね。ところがそれをよくよく、なら万物を見て道理に合う信心に照らし合わせるとです、それはどうもおかしいことになってくる。私はその創価学会が大変こう、ま、繁盛していく、ま、はやり出した時分に頂いたことなんですけども、やはりあれでも徳は徳だと。けども金光教の信心が徳の船に乗って渡れと仰る、同じなものでも船のような徳ならね、創価学会は戦車のようなものだと頂きました。もうとにかくバリバリやって押し倒していくと言うだけですよね。
だからね、どっかがたっとこうその溝んごたるとこにおてこちから、おてこだらもう絶対あがりきらんち言う。これが創価学会の将来です。
そん代わりもうそん進み方というのはもういうならば冷戦れい襲破竹の勢いといったような勢いを感ずることができるけれどもです、ね、一つそこに落ち込んだ所に、だら自分ではあがりきらんと言うのがいわば戦車の徳です。ね、それこそほかのもんなたたき殺してからでも、殺してからでも前に進もうという生き方なんです。
ね、もう根本的にねそれが救われるとか助かるとか、目先のことならあらゆる宗教宗派がですよね、何かそこに助かりがあったり素晴らしい言葉があったり教えがあったりするだけのことで、よくよく人間万物の霊長としてのですよ、自覚に立って私はみるとこりゃどうもおかしいじゃないかということになってくる。ほかの宗教は、ね。けども金光様の御信心の場合はです、これは私どもがなら日々こうしてあの経典をひも説かせて頂いて、御理解を頂いてです、もう道理にあ合わないということがないということ。
ね、天地の道理に合うている。だから天地の道理がわきまえられて、天地の道理に合うた生き方さえすれば必ず、ね、人間が幸せになっていく、繁盛の一途を辿っていくことができると言う信心。だから私は金光教の信心者がです、もっともっと金光教の信心の素晴らしいところを一つ分からしてもろうて、しかもそのいうならば天地日月の心になること寛容と仰る、その天地日月の心こと、そこだけにでも、ひとつお互いが絞らせて頂いての信心修行をさしていただくならです、ね、ほんとに有難いものだと言うことを身をもって現わしていくことができると思うのでございます。どうぞまあ、私が我田引水と言うかね、金光教者だから金光教を良く言うと言うふうに頂かずにひとつお互いが考えてみてですね、なるほど金光教は素晴らしいんだと、そして他宗派そりゃ素晴らしい、素晴らしいけれどもどこにかひとつおかしなところがある。どこにか人間万物の霊長としてする、してはおかしいところがある。というところをですね、ひとつ突き止めてからの信心でなからなければ迷いが起こると思いますね。どんな場合でも迷いを起こさず、いわばどういう節に直面してもです、その節を大事にしてその節から繁盛のまた糸口が頂けれるような生き方を求めて信心していかにゃならんですね。どうぞ。